ベクトル検索が苦手な「関係」の質問

通常のRAGは、質問と意味が近い文書の断片を探します。この方式は「この設備の点検手順は」のように、答えが1つの文書にまとまっている質問には強い一方、複数の情報の関係をたどる質問には弱くなります。

保全の現場の質問は、関係をたどるものが多くあります。「ポンプP-101の吐出圧低下。上流のどの機器が原因になりうるか」「この軸受と同じ型番を使っている設備はどれか」「この故障モードに対して過去に効いた処置は」。答えは配管計装図(P&ID)、部品表、保全記録、故障モード一覧にまたがり、1つの文書には書かれていません。

ナレッジグラフは、設備・部品・故障モード・処置・文書を「点(ノード)」、それらの関係(接続されている、構成している、引き起こす、対処する)を「線(エッジ)」として持つデータ構造です。GraphRAGは、このグラフをたどって関係のある情報を集め、生成AIに回答させる方式を指します。

設備、部品、故障モード、処置、保全記録をノードとし関係で結んだナレッジグラフ タンクT-01 ポンプP-101 熱交換器E-05 メカシール 故障モード:漏れ 処置:シール交換 保全記録 2025-03 上流 下流 構成 起こす 対処 記録
保全領域のナレッジグラフの例。設備の接続関係と故障モード・処置の関係をたどって回答の材料を集める。

日立・ダイキン・三菱ケミカルの故障診断AIエージェント

国内で公表されている保全向けナレッジグラフの事例は、日立のHMAX Industryに関するものが中心です。

時期内容状況(公表値)
2025年4月日立がダイキン工業の工場で設備故障診断AIエージェントの試験運用を開始対応時間の半減を目標(目標値)
2025年12月日立と三菱ケミカルが東海事業所(四日市)で共同検証を開始。P&ID・設備図面をナレッジグラフ化し、保全記録と日立独自の故障原因分析プロセスを学習熟練技術者と同等以上の速さ・正確さで原因を特定できるかを検証中
2025年12月日立が空気圧縮機・給水ポンプなどのアラーム時に対処法を対話形式で示す生成AIエージェントを提供開始取扱説明書・稼働データ・サービスエンジニアのノウハウを統合したDBを参照

総務省の令和8年版情報通信白書は、ダイキンと日立の故障診断AIエージェントが設備図面や保全記録をナレッジグラフとして取り込み、多言語対応で海外拠点でも使えること、現場から設備制御への対応も要望されていることを紹介しています。

ここで注意したいのは、ダイキンの「対応時間の半減」は目標値であり、三菱ケミカルの検証も結果ではなく検証項目として公表されている点です。成果の数字として引用するのではなく、「どういうデータを統合しているか」を参考にするのが適切です。三菱ケミカルの検証では、P&IDのような設備の接続関係を表す図面をグラフ化の起点にしていることが読み取れます。

海外の産業ナレッジグラフ製品

海外の産業データ基盤も、ナレッジグラフを生成AIの土台に据えています。Cogniteは2024年6月、Cognite Data Fusionを拡張する「Cognite Atlas AI」を発表し、意味的な産業ナレッジグラフを使った「Context Augmented Generation」を特徴に挙げました。AVEVAは2026年6月、分散したデータソースを標準データモデルにマッピングする提案をエージェントが行う「ツインビルダー」と産業ナレッジグラフを発表しています(ナレッジグラフは2026年にアーリーアクセス、各社発表)。製品の詳細はCognite Atlas AIとはで扱っています。

GraphRAGが向く領域・向かない領域

ナレッジグラフは強力ですが、作るのに手間がかかります。向く領域を選んで使うのが現実的です。

逆に、規程・マニュアル・手順書のように、答えが1つの文書にまとまっている用途では、通常のRAGで十分なことが多く、グラフを作る手間に見合いません。

構築の進め方

最初から工場全体のグラフを作らず、1つの系統(例えば冷却水系統、1つの生産ライン)から始めます。

  1. 対象系統のP&ID・設備台帳・BOMを集め、設備IDの体系を揃える
  2. 設備と接続関係をグラフにする(ここは図面とマスタからの変換が中心)
  3. 過去の保全記録を設備IDで紐づけ、故障モードと処置を抽出する(生成AIで候補を出し、保全担当が確認)
  4. 保全担当が実際に困った事例を20〜30件選び、グラフあり・なしで回答を比べる

設備IDが図面・台帳・保全記録でばらばらな工場は少なくありません。ステップ1に最も時間がかかるのが普通です。命名の揃え方は設備タグの命名規則を参照してください。設備故障診断のエージェント全体の設計は設備故障診断AIエージェントで扱っています。

よくある質問

GraphRAGと通常のRAGは併用できますか?

併用するのが一般的です。関係をたどる質問はグラフで候補を絞り、手順や詳細は文書のRAGで補います。グラフの各ノードに関連文書を紐づけておくと、回答に根拠文書を示せます。

ナレッジグラフは生成AIで自動で作れますか?

保全記録などの文書から設備・故障・処置の関係を抽出する作業は、生成AIで候補を出せます。ただし抽出の誤りがそのまま診断の誤りになるため、設備の接続関係は図面とマスタから作り、文書からの抽出は人が確認してください。

中小規模の工場でもナレッジグラフは必要ですか?

設備数が少なく、関係を熟練者が把握できている工場では、優先度は高くありません。保全記録の構造化と通常のRAGから始め、関係をたどる質問が増えてから検討すれば十分です。

この記事に出てくる用語

用語集(日・英・中)をすべて見る

この記事を書いた人

株式会社サオス

株式会社サオス 製造DX部

DELMIA Apriso を中核とした MES / 製造DX の導入・運用・人材育成と、製造業向けAIの調査・開発・教育を手がけるITコンサルティング企業。ISO 9001:2015 / ISO 27001:2022 認証取得。 日本・中国・米国で製造業のMES・データ基盤・AI導入を手がけた実務者が、欧米・中国の一次情報にあたって書いています。